ブッダは。「言葉の再定義」を行ったようです。
例えば、バラモンで使われた言葉は、そのままの意味でもってくるということをしていません。充分、吟味して使っています。
子供の頃から父と一緒にいたカピラ城へは五人のバラモンが出入りしていました。その五人とは後にブッダと苦行をともにした友人達です。恐らく、ブッダの父スッドーダナ王が、息子の教育のために招いたと思われます。このため、ブッダはバラモンが習熟したウパニシャッドなどはある程度、知っていたものと思われます。
むしろ、ウパニシャッドを知っていたからこそ、バラモンの言葉をそのまま使わなかったと思われます。実際、ブッダが語る言葉には宇宙概念や日常生活にある神々はまったくありません。
サンスクリット語のDharmaには真理に近い意味があります。これについてはブッダが生存した時代か少し前の時代に生まれた『ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド』(Brhad.Up 1-4-14)に書かれています。
しかし、ブッダはそのような意味には使っていません。宇宙という広大な概念があり、そして社会があり、人間がいるという世界観はどちらかいうと西洋的な見方ですが、ブッダはそういう見方は取りません。いくら広大な概念の知識があったとしても、自らの苦しみや迷いは解決しないからです。むしろ、あらゆる知識は虚構である、と見抜いてしまったのです。その上で、説法のために最小限度の名称を使います。しかも、それらが頭の中で勝手な概念を構築しない範囲で。
Dharmaが宇宙の運行から人間を含むあらゆる生き物の摂理を表しますが、人間中心のDharma(パーリ:Dhamma)を考えた時、それは「生き方」になります。しかも、それはすでに在るのではなく、自らが決めるのです。「生き方」として。
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1.はじめに
2.Dhamma
3.Diṭṭha
4.Abhijānāti
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